自分にできることを考えましょう
平成25年1月25日・26日
阿蘇広域事務組合研修室


 皆さん、おはようございます。
 一面銀世界の光景を久しぶりに見て、わくわくしています。昭和52年から3年間、上益城郡の旧清和村緑川小学校に勤務していました。当時、一冬に数回雪が降っていました。そのたびに子どもたちと雪合戦などをして楽しんでいました。そのときのことが思い出されて心が躍っているのです。車の運転では少し緊張して来ましたが、幸い道路は雪が積んでいなくてよかったです。
 ただいまご紹介いただきました中川です。よろしくお願いします。
 少し自己紹介をします。先ほど、「なかがわありとし」さんと紹介していただきました。私は「ゆき」さん又は「ゆうき」さんと呼ばれ、よく女性と間違われます。
 女性とまちがわれることが多い名前ですが、私は「有紀」という名前が大好きです。こんなすばらしい名前を付けてくれた父を敬愛しています。「有」は、上に「保」を付けると保有するという熟語ができます。「有」には、「保つ」という意味があります。「紀」は、「21世紀」の「紀」です。「年」という意味があります。このことから「『年を重ねるごとに年相応の人間になるように』と願い、「ありとし」と名付けた」と父がよく話をしていました。69歳の今でも幼なじみからは、「ありちゃん」の愛称で呼ばれています。この愛称も私は大好きです。
 皆さん方もご両親からすばらしい名前をつけてもらっていらっしゃいますよね。そしてご自分のお孫さん、お子さんが誕生した時、いろんな思いを込めて名前を付けられたでしょう。その親の思い、家族の思いを人生の節目節目、たとえば誕生日だったり進級や進学、卒業などの時に、お子さんに語ってやってください。小学校2年生くらいまでのお子さんだったら、膝の上に抱っこして、手を背に回して、目を見て、名前に込めた親の思いを語ってください。手を背中に回してということはとても意味があります。これについては、後です小し触れます。高学年や中学生でしたら、手を取り、目を見つめて語ってください。きっとお子さんは、自分の名前を好きになり、誇りに思い、「素晴らしい名前を付けてくれてありがとう」と親や家族に感謝すると思います。このことが、自分を好きになることにつながります。自分を好きになることは周りの人も好きになります。自分を価値ある人間と思うようになります。この感情を自尊感情といいます。
 これまで話しましたように、この自尊感情は、多くの研究結果から、自分が大事にされていると感じられるほど、他の人も大事にできることが分かっています。
 自尊感情は、私たちが生活する上で一番重要なものと私は思っています。私たちは時として、積極的になったり、消極的になったりするでしょう。体調が悪いときは別にして。例えば誰かに、「カラオケに行こうか」と誘われたとき、「うん、行こう。行こう」と言うときと、「カラオケや、めんどくさいな」と言うときがありませんか?「行こう、行こう」と言うときは自尊感情が高いときです。「めんどくさい」と思うときは低いときです。自尊感情が高いときは、顔が上を向いています。低いときは下を向きがちです。お子さんや周りの人にこんな事が見受けられるときがありませんか?自尊感情が低い状態が続くと、高齢者は高齢者鬱病にならないとも限りません。子どもたちは、引きこもりや不登校にならないとも限りません。下を向いている人には温かい言葉かけをして下さい。「調子はどうかい?」でも「私にできることはないかい?」でもいいです。温かい言葉掛をして欲しいと思います。これが、みんなが幸せに暮らす世にするための「自分にできること」の一つであると思います。
 お子さんたちに限らず私たちの自尊感情を育むには、体と心に栄養を与える事が大事です。体の栄養は、「よく食べること」、「よく寝ること」そして「よく運動すること」です。「食べる」というのは、出来るだけ家庭で作った食事を家族全員がそろって食べること、そして会話をすることです。「寝る」というのは、昼寝などではなく、暗くなったら眠り明るくなったら起きる、つまり、夜の10時頃までには寝て、朝6時から7時くらいには起きることです。「運動」は体を適度に動かすことですね。心の栄養の第1は「安心・安全」です。学校でいじめや体罰があっては子どもたちは、安心して安全に学校で過ごすことはできません。ですから、学校では、いじめ撲滅そして体罰禁止で子どもたちの安心安全確保に努めているのです。家庭でも、虐待やDV(ドメスティックバイオレンス)があったら安心・安全は保てません。心の栄養の第2は、周りから「愛されている」、「独りぼっちじゃない」、「受け入れられている」、「感謝されている」などを実感できるように包み込むことです。先ほど「背に手を回して話をすることには意味があります」と言いました。背に手を回して抱っこされると、自分は包み込まれているということを強く実感します。だから背に手を回して抱っこすることに意味があるのです。熊本県の学校では、「認め 褒め 励まし 伸ばす」を教育行動指標として子どもの教育に当たっています。これは学校だけの専売特許ではありません。家庭でも地域でも職場でも「認め 褒め 励まし 伸ばす」を心掛けて下さい。
 資料に中学生の道徳の教材「一冊のノート」を付けています。読んでみてください。  


   「一冊のノート」                      北鹿渡 文照

 「おにいちゃん、おばあちゃんのことだけど、このごろかなり物忘れが激しくなったとおもわない。ぼくに、何度も同じことを聞くんだよ。」
 「うん、今までのおばあちゃんとは別人のように見えるよ。いつも自分の眼鏡や財布を探しているし、自分が思い違いをしているのに、自分のせいではないと我を張るようになった。おばあちゃんのことでは、おかあさん、かなりまいっているみたいだよ。」
 弟の隆とそんな会話を交わした翌朝の出来事であった。
 「お母さん、ぼくの数学の問題集、どこかで見なかった。」
 「おかしいな、一昨日この部屋で勉強したあと、確かにテレビの上に置いといたのになあ。」
 学校へ出かける時間が迫っていたので、ぼくはだんだんいらいらして、祖母に言った。
 「おばあちゃん、また、どこかへ片づけてしまったんじゃないの。」
 「私は何もしていませんよ。」
 そう答えながらも、祖母は部屋のあちこちを探していた。母も隆も問題集を探し始めた。
 しばらくして、隆は隣の部屋から誇らしげに問題集をもってきた。
 「あったよ、あったよ、押し入れの中の新聞入れに昨日の新聞と、一緒に入っていたよ。」
 「やっぱり、おばあちゃんのせいじゃないか。」
 「どうして、いつもわたしのせいにするの。」
 祖母は、責任が自分に押しつけられたので、さも、不安そうに答えた。
 「そうよ、なんでもおばあちゃんのせいにするのはよくないわ。」
 母が、ぼくをたしなめるように言った。ぼくは、むっとして声を荒げて言い返した。
 「何言っているんだよ。昨日、この部屋を掃除してたのはおばあちゃんじゃないか。新聞と一緒に問題集も押し入れに片づけたんだろう。もっと考えてくれよな。」
 「そうだよ。おにいちゃんの言うとおりだよ。この前、ぼくの帽子がなくなったのも、おばあちゃんのせいだったじゃないか。」
 「しっかりしてよ、おばあちゃん。近ごろ、だいぶぼけてるよ。ぼくら迷惑してるんだ。今も隆が問題集を見つけなかったら、遅刻してしまうところじゃないか。」
 いつも被害にあっているぼくと隆は、いっせいに祖母を非難した。祖母は悲しそうな顔をして、ぼくと隆を玄関まで見送った。
 学校から帰ると、祖母は小さな机に向かって何かを書き込んでいた。ぼくには、そのときの祖母のさびしそうな姿が、なぜかいつまでも目に焼き付いて離れなかった。
 祖母は、若いころ夫を病気で亡くした。その後、女手一つで4人の息子を育て上げるかたわら、児童民生委員や婦人会の係を引き受けるなど地域の活動にも積極的に携わってきた。そんなしっかりものの祖母の物忘れが目立つようになったのは、65歳を過ぎたここ1・2年のことである。祖母は、自分は決して物忘れなどしていないと言い張り、家族との間で衝突が絶えなくなった。それでも若い頃の記憶だけはしっかりしており、思い出話を何度もぼくたちに聞かせてくれた。このときばかりは、自分が子どもに返ったように目を輝かせて話をした。両親が共稼ぎであったことから、ぼくたち兄弟は幼いころから祖母に身の回りの世話をしてもらっており、今でも何かと祖母に頼ることが多かった。
 ある日、部活動が終わって、ぼくは友だちと話しながら学校を出た。途中の薬局の前で、友だちの一人が突然指さした。
 「おい、みろよ。あのおばあさん、ちょっとおかしいんじゃないか。」
 「ほんとうだ。なんだよ。あの変てこりんな格好は。」
 指さす方を見ると、それは季節はずれの服装にエプロンをかけ、古くて大きな買い物かごを持った祖母の姿であった。確かに友だちが言うとおり、その姿は何となくみすぼらしく異様であった。ぼくは、あわてて祖母から目を離すとあたりを見回した。道路の向かい側で、二人の主婦が笑いながら立ち話をしていた。ぼくには、二人が祖母のうわさ話をしているように見えた。
 祖母は、すれちがうとき、ほほえみながら何か話しかけた。しかし、ぼくは友だちに気づかれないように、知らん顔をして通り過ぎた。友だちと別れた後、ぼくは急いで家に帰り、祖母の帰りを待った。
 「ただいま。」
 祖母の声を聞くと同時に、ぼくは玄関へ飛び出した。祖母は、大きな買い物かごを腕にぶら下げて、汗を拭きながら入ってきた。
 「ああ、暑かった。さっき途中であった二人は・・・・。」
 「おばあちゃん。なんだよ、その変な格好は。何のためにふらふら外を出歩いているんだよ。」
 ぼくは、問い詰めるような厳しい口調で祖母の話をさえぎった。
 「何をそんなに怒っているの。買い物に行ってきたことぐらい見れば分かるでしょ。私が行かなかったらだれがするの。」
 「そんなこと言っているんじゃない。みんながおばあさんのことを笑っているよ。かっこ悪いじゃないか。」
 「そうして、みんなで私をバカにしなさい。いったいどこがおかしいって言うの。だれだって年をとればしわもできれば白髪頭になってしまうものよ。」
 祖母のことばは、怒りと悲しみでふるえていた。
 「そうじゃないんだ。だいたいこんな古ぼけた買い物かごを持って歩かないでくれよ。」
 ぼくは腹立ちまぎれに祖母の手から買い物かごをひったくった。
 「どうしたの。大きな声を出して。おばあちゃん、ぼくが頼んだものちゃんと買ってきてくれた。」
 「はい、はい。買ってきましたよ。」
 隆は、買い物かごをぼくから受け取ると、さっそく中身を点検し始めた。
 「おばあちゃん、きずばんと軍手が入っていないよ。」
 「そんなの書いてあったかなあ。えーと、ちょっと待ってね。」
 祖母は、あちこちのポケットに手を突っ込みながら1枚の紙切れを探し出した。見ると、それは隆が明日からの宿泊合宿のために祖母に頼んだ買い物リストであった。買い忘れがないように、祖母の手で何度も鉛筆でチェックされていた。
 「やっぱり、きずばんも軍手も、書いてありませんよ。」
 「それとは別に、今朝、買っておいてくれるように頼んだだろう。」
 「そんなこと、私は聞いていませんよ。絶対聞いていません。」
 「あのね、おばあちゃん・・・・。」
 隆は、今にもかみつくような顔で祖母をにらんだ。
 「もうやめろよ。おばあちゃんは忘れてしまったんだから。」
 「なんだよ、おにいちゃんだって、さっきまで、おばあちゃんに大きな声を出していたくせに。」
 ぼくは不服そうな隆を誘って買い物に出かけた。道すがら、隆は何度も祖母の文句を言った。
 その晩、祖母が休んでから、ぼくは今日のできごとを父に話し、なんとかならないかと訴えた。父は、ぼくと隆に、先日、祖母を病院に連れて行ったときのことを話し出した。
 「お前たちが言うように、おばあちゃんの記憶は相当弱くなっている。しかし、お医者さんの話では、残念ながら現在の医学では治すことはできないんだそうだ。これからもっとひどくなっていくことも考えておかなければならないよ。おばあちゃんは、おばあちゃんなりに一生懸命やってくれているんだからみんなで温かく見守ってあげることが大切だと思うよ。今までのように、何でもおばあちゃんに任せっきりにしないで、自分でできることぐらいは自分でするようにしないといけないね。」
 「それはぼくたちもよく分かっているよ。だけど・・・。」
 これまでの祖母のことを考えると、ぼくはそれ以上何も言えなくなった。
 その後も、祖母はじっとしていることなく家の内外の掃除や片づけに動き回った。そして、ものがなくなる回数はますます頻繁になった。
 ある日、友だちからの電話を受けた祖母が、伝言を忘れたため、ぼくは友だちとの約束を破ってしまった。父に話したあと怒らないようにしていたぼくも、このときばかりは激しく祖母をののしった。
 それから1週間あまりすぎたある日。捜しものをしていたぼくは引き出しの中の一冊の手あかに汚れたノートを見つけた。何だろうと開けてみると・・・
 それは、祖母が少しふるえた筆致で、日ごろ感じたことなどを日記風に書き綴ったものであった。見てはいけないと思いながら、つい引き込まれてしまった。最初のページは、物忘れが目立ち始めた2年程前の日付になっていた。そこには、自分でも記憶がどうにもならないもどかしさや、これから先どうなるのかという不安などが、切々と書き込まれていた。普段の活動的な姿からは想像できないものであった。しかし、そのような苦悩の中にも、家族と共に幸せな日々を過ごせることへの感謝の気持ちが行間にあふれていた。
 「おむつを取り替えていた孫が、今では立派な中学生になりました。孫が成長した分だけ、私は歳をとりました。記憶もだんだん弱くなってしまい、今朝も孫に叱られてしまいました。自分では気付いていないけれど、ほかにも迷惑をかけているのだろうか。自分では一生懸命やっているつもりなのに・・・・あと10年、いや、せめてあと5年、なんとか孫たちの面倒をみなければ。まだまだ老け込む訳にはいかないぞ。しっかりしろ。しっかりしろ。ばあさんや。」
 それから先は、ペ−ジを繰るごとに少しずつ字が乱れてきて、判読もできなくなってしまった。最後の空白のページに、ぽつんとにじんだインクのあとを見たとき、ぼくはもういたたまれなくなって、外に出た。
 庭の片隅でかがみ込んで草取りをしている祖母の姿が目に入った。夕焼けの光の中で、祖母の背中は幾分小さくなったように見えた。ぼくはだまって祖母と並んで草取りを始めた。
 「おばあちゃん、きれいになったね。」
 祖母は、にっこりとうなずいた。
                                          (文部省道徳教育推進指導資料集第4集 平成6年3月)

 いかがですか。
 この資料を題材にした道徳の授業を参観した方の話です。
 「一人の男子生徒が、読み終わると号泣していました。ワークシートの上にぼろぼろ落ちる涙を制服の袖でぬぐっている様子を見た私も涙が止まらなくなりました。男子生徒をみた隣の女子生徒も涙をこぼしていました。結局この子は、ワークシートには何も書くことはできませんでした。先生はこの子をどう評価するのだろうと、担任の先生に尋ねますと、先生は「ここに涙のあとがあります。この涙の跡で十分です。何かを書いたのより彼の気持ちが分かります」とおっしゃいました。先生の優しさを実感しました。」と。
 このことをこれまでいくつかの人権問題研修会で話しました。どこの会場でも、ハンカチで目頭を押さえる方がいました。この会場にも幾人もの方が目頭を押さえていらっしゃいます。おばあさんや男の子の心情に共感したり、自分の家族や知り合いと重なってのことかもしれません。
 おばあさんに大事に育てられた男の子は、おばあさんの優しさをそのまま受けついているようです。おばあさんの物忘れで困ったことがことが起き、おばあさんを非難してもおばあさんから大事にされている自分をおばあさんのノートから改めて読み取り、おばあさんに寄り添う男の子の心情がよくわかります。まさに自分が大事にされていると感じれば感じるほど、他の人も大事にできるということです。私たちは、だれもがかけがえのない大切な存在です。一人の人間として互いを尊重し合いましょう。
 今年度の人権研修会は28回目ということですね。毎年、諸々の人権課題について人権研修が行われているそうですね。ここ(阿蘇広域事務組合)で、毎年人権問題研修会が行われていますように、学校でも地域でも職場でも人権教育、人権啓発が行われていますが今なお偏見や差別など多くの人権課題が厳存しています。
 主な人権課題は、同和問題、水俣病問題、ハンセン病問題、障がい者問題、女性問題、高齢者問題、外国人問題、いじめ等です。
 中でも、熊本県では、同和問題、水俣病問題、ハンセン病問題を大きな人権課題として、その解消に向け、教育・啓発活動に取り組んでいます。 
 同和問題の一番大きな課題は、結婚差別です。愛し合った二人が生涯共に暮らそうと決意したにもかかわらず、生まれ育った場所で結婚に反対されるというのが結婚差別です。「二人は愛し合っている、人柄もいい、でも生まれ育った場所がなあ」で、結婚できないなんてこんなおかしなことはありません。

 就職差別があります。これもその人に何が出来るかではなく、生まれ育った場所で採用の合否を決めるなんて許せることではありません。最近は、土地差別が起きています。「今度、○○に住もうと思っている。そこに同和地区があるか?」などを市役所などに聞くという事があっているそうです。これは、人が持っている忌避意識の表れです。忌避意識とは、見なされることを避けたいという意識です。つまり、自分が同和地区の人と見なされることを避けたいという意識です。これは、自分自身に同和地区に対する差別意識があるからこのようなことが起きるのです。決してあってはならないことです。インターネット上での差別は、誹謗・中傷、そして醜い差別落書きなどです。顔が見えないことからのことでしょう。このようなことは許せません。
水俣病問題は、皆さんご存じのように窒素水俣工場の廃液に含まれていた有機水銀中毒です。決してうつる病気ではありません。このことは学校では、現地学習をしたりして学習しているにもかかわらず、水俣市の中学生のサッカーチームと県内の中学生のサッカーチムとの試合中に、ボールのせめぎ合い中、応援席から「さわるな!うつる!」の発言があったのです。この中学生には「水俣病=伝染病」の意識があったからこんな発言が飛び出たのでしょう。
 もう、10年程前になりますか。南小国町の黒川温泉で、ハンセン病元患者の方に対する宿泊拒否事件がありました。これも「ハンセン病=伝染病」と言う間違った理解が起こした差別事件です。
 学校でも、地域社会でも、職場でも人権教育・人権啓発が行われているにもかかわらず、なぜ、今なお差別意識が厳存しているのでしょうか。その要因となるもののいくつかを考えてみたいと思います。
 要因の第1は、先ほどから言っていますように、ある情報から「○○=○○」という固定観念を持ってしまうことが私たちの心の中にありはしないでしょうか。
 人の噂や昔からの言い伝えなど周りの一部の情報に影響されて、または根拠のない理由や思い込みで判断し、差別や偏見につながる考えや行動をしていることはないでしょうか。
 私は、同和問題にしても、水俣病問題にしても、ハンセン病問題にしても、この「○○=○○」という思い込みが今なお差別意識が払拭されない大きな要因ような気がしてなりません。
 私の心の中にはこの思い込みや偏見がたくさんあります。それらを一つ一つ取り除く努力をしています。皆さんの心の中にもあることと思います。
 みなさんはカラスについてプラスイメージを持っていますか?マイナスイメージを持っていますか?
 プラスイメージをお持ちの方?(挙手無し)
 マイナスイメージをお持ちの方?(挙手多数)
 マイナスイメージをお持ちの方が多いようですね。幼少の頃、田んぼにカラスが舞い降りて、えさを突いているところを眼にすると、「今日はカラスの多か。縁起が悪かばい」などと言っていました。なぜ、カラスについて人はマイナスイメージを持っているのでしょうか?
 それは「黒=不吉」という思い込みがあるからではないでしょうか。
 皆さんは「七つの子」を小さい頃歌ったことがあおりでしょう。
 歌詞を見てみます。

 
               七つの子

 カラス なぜ啼くの カラスは山に 可愛い七つの 子があるからよ         
 可愛い 可愛いと カラスは啼くの 可愛い 可愛いと 啼くんだよ 
 山の古巣に いって見て御覧 丸い眼をした いい子だよ

 この歌は、大正10年野口雨情が作詞したものです。黒い鳥であるカラスが鳴くと、不吉な事が起きるという古来からの迷信があり、そのためカラスは“不吉な鳥”として嫌われていました。雨情がカラスの鳴き声を、子煩悩な親鳥の呼び声として表現したのは、黒いカラスは不吉な鳥と決めつけることのおかしさを人々に訴えたのだと思います。
 先日、県立盲学校の生徒さんにもこの話をしました。生徒さんの表情からカラスを不吉な鳥と決めつけることのおかしさに気づいているようでした。「このおかしさを皆に伝えるためにも一緒に声に出して七つの子を歌いましょうか」と語りかけると、「歌いましょう」と返ってきました。みんなで声に出して歌いました。
 2年前、ウズベキスタンへ旅行しました。中央アジアの国、ウズベキスタンは、緑あり、砂漠あり、歴史遺産あり、暮らしている人々の優しさありとそれは素晴らしい国でした。特に、紺碧の空に真っ青に輝くモスクはとても印象に残りました。旅の最終日、バスの中で日本語ガイドのマリカさんが私たちにこう尋ねました。「みなさんの中で、ウズベキスタンに行くと言ったら『あんな危ない国には行かない方がいいよ』と知り合いの人などから言われた人はいませんか?ウズベキスタンにやってきてどうでしたか?危険な国と思いますか?」と。
 実は、知人どころか私自身が「ウズベキスタン 青の都サマルカンドを旅するツアーに参加しよう」という妻に「あすこは危なか国だけん行きまい」と言っていたのです。ウズベキスタンの隣国はアフガニスタンです。アフガニスタンはイスラム過激派のテロ行為があっていました。外務省が出している外国の治安情報ではアフガニスタンの国境周辺は「渡航の是非を検討して下さい」です。それ以外も「十分注意して下さい」です。でも、妻は「行きたい」と言います。それで、治安について旅行会社に問い合わせました。「危険な箇所には立ち寄りませんので問題ありません」という返事でした。外務省にも問い合わせました。「個人旅行ですか? ツアーですか?」と問われたので「ツアーです」と答えると、個人旅行の人も含めて治安情報を出しています。旅行会社のツアーだったら心配ないでしょう」とのことでした。
 行ってびっくりでした。私たちが訪問した、タシュケント、ブハラ、サマルカンドの都市は穏やかで、人々はとても明るくそして優しく、治安の心配などみじんもないところでした。ある一つの情報をそのまま信じて「○○は○○だ」と思い込むことのおかしさを実感しました。イスラム過激派がいるアフガニスタンが隣国にあるという一つの情報でウズベキスタンは危険な国と思い込んでいた自分を恥じました。
 また、マリカさんはウズベキスタンの大学で日本語を学び、法政大学に留学して日本語を学んだと言いました。そして、日本の旅行を楽しみ、東京を始め鎌倉や奈良、大阪を訪れたが京都が一番印象に残っていると話しました。金閣寺や銀閣寺はとてもきれいだったが、最も心を動かされたのは竜安寺の石庭だったと言いました。竜安寺の石庭を見つめていると、心が癒されたと言いました。この竜安寺の石庭を造ったのは、被差別部落の人だと言われています。銀閣寺も被差別部落の人の手によるものだと言われています。室町時代、能を創りあげた観阿弥、世阿弥も被差別部落の人だと言われています。江戸時代、前野良沢、杉田玄白と日本で最初の解剖をした人も被差別部落の人だと言われています。また、死んだ牛馬の処理を通して日本の皮革産業を起こしたのも被差別部落の人々です。このように被差別部落の人々が日本の文化や産業の発展に果たした功績は大きいのです。同和問題を考える時、こんな面にも目を向け考えることが大切だと思います。
 皆さん、レジュメのあいているところに魚の絵を描いてみてください。(各自魚の絵を描く)
 (一人の方にホワイトボードに描いてもらう)○○さん、▽▽さん、とても素晴らしい魚の絵を描いていただきありがとうございました。
 お尋ねします。○○さんと同じように左向きの魚を描かれた方、手を挙げてください。(ほとんどが挙手)
 ▽▽さんのように上を向いている魚を描かれた方?(2人挙手)
 ありがとうございます。
 皆さん、考えてください。私は魚の絵を描いてくださいと言いました。左向きの魚を描いてくださいとも右向きはだめですよとも言いませんでしたが、ほとんどの方が左向きの魚を描かれました。どうしてこんなことが起きるのでしょう?
 (「魚料理では左向きに出す」との声が上がる)そうですよね。料理では、魚は左向きに出しますね。5月の鯉のぼりの絵や写真はどちらを向いていますか?(「左」の声あり)
 そうですよね。ほとんどが左を向いています。図書館にある魚の図鑑の絵や写真の7割から8割は左向きです。私たちは、左を向いている魚の絵や写真、料理の魚を見て、空気を吸うが如く無意識のうちに魚の絵は左向きを学習しているのです。そして、「魚は左向き」を刷り込んでいるのですね。ですから、上向きの魚を描いたお二人はご自分の思いを持っておられてすごいと思います。
 皆さん牛の色をイメージして下さい。お尋ねします。
 あか牛が目に浮かぶ人?(多数)
 黒牛が目に浮かぶ人?(1人)
 白黒のホルスタイン牛が目に浮かぶ人?(3割程度)
 牛の色についても、こんなに違いがあります。牛の色は、私たちが小さい頃から見慣れた牛の色、今身近にいる牛の色が、刷り込まれているのです。
 この刷り込みが、思い込みとなり、これにマイナスイメージが加わると偏見となり、差別意識が生まれるのです。
 黒いカラスは不吉とか、魚は左向き、牛の色はあかなど固定的に捉えていることで偏見や差別意識は起きないでしょうが、同和問題や水俣病問題、ハンセン病問題を「○○=○○」と思い込んでいることが、今なお差別や偏見が無くならない大きな要因の一つだと思います。「○○=○○」と固定的に考えることではなく、「そうかな?」と一度立ち止まって考えることが大切だと思います。そのために、正しく学び、正しく理解し、相手の立場に立って判断し、行動することです。
 第2の要因として、風習や迷信がそのままにされていることはないでしょうか。
 資料に付けています「六曜って何?」を御覧下さい。読んでみます。


 若いカップルがいよいよゴールイン。2人で式場さがしを始めました。相談に行った式場で「仏滅割引」を知った2人は、迷わずこの日を予約しました。浮いたお金を新婚旅行にあてようと思ったからです。
 ところが、2人とも親から
 「仏滅に結婚式なんてとんでもない」
 「世間の常識を知らない」
 「恥ずかしくて親戚に顔向けできない」
と猛反対を受けました。いつ結婚式を挙げようと関係ないと思っていた2人には、なぜ親がそこまで反対するのか納得いきませんでした。
                                                                                  (益城町広報)

 カレンダーや手帳に、いまだに「六曜」が記載されているものがあります。結婚式やおめでたい日は「大安」に、お葬式は「友引」はよくない、事故を起こすと「仏滅」だったなどと、日取りを決める基準にされることがあります。この六曜とは、いったいどのようなものでしょうか?
 私たちはいま、7日間という週を単位として生活しています。しかし、昔の日本には週はありませんでした。そこで、上旬中旬というふうに10日単位を用いていましたが、これでは細かい1日単位の表現が不自由です。そこで、6日を1周とした周期を作りました。それが先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口で、六曜と呼ばれるものです。
 これは、足利時代の末期に中国から伝わった時刻の名前を日に転用したものです。その時、毎月の1日(旧暦)を次のようにすると定めました。すなわち、1月と7月の1日は先勝、2月と8月の1日は友引、3月と9月の1日は先負、4月と10月の1日が仏滅、5月と11月の1日が大安、6月と12月の1日を赤口としました。ですから、例えば、2月は、1日が友引、2日が先負、3日が仏滅、4日が大安、5日が赤口、6日が先負という具合になります。ですから六曜が途中で終わり、ときには友引が2日続く、大安が2日続くという場合も出てきます。
 「このようにして定められ、ただ機械的に暦に記入された文字を見て、知性を持った現代の人間が、日が良いとか悪いとか言って心配しているのは、何とも滑稽なことだと私は思っています。」と熊本市の仏願寺住職であった故高千穂正史さんは、その著書愛護問答集で述べています。
 「自分は差別していないが、世間が・・・」という言い方は、部落差別を始めさまざまな差別の際に、口にされてきました。「六曜は迷信であり、偏見にしばられることのない生き方をしていきましょう。一人ひとりの意識が変わることによって、「世間の常識」は変わっていくものです。迷信に頼る生き方ではなく、事実を知る生き方をしていくことが大切です。そのとき、偏見にしばられて生きるおかしさに気づくことができます。「そんなことにいつまでこだわっているの」と言えるよう、私たちの意識を高めていこうではありませんか。
 要因の第3は、「私には関係ない」「かかわりたくない」の心がありはしないでしょうか。
 数年前、子ども人権集会で高校生が部落差別と闘っていることを発表しました。
 「あそこって元部落よね」という友達の発言について両親や担任と話し合い、当人だけでなく他の親しい友達にも自分が差別と闘う生き方をしていることを話します。すると、友達は、「あなたがどうだと言うことは関係なか。私たちは友達よ」と言ったそうです。高校生は、「関係なかではない。あなた達が部落差別をする側に立つのではなく差別をなくす側に立って欲しい」「共に差別をなくす仲間になってほしい」との思いから、一人でも多くの差別をなくす仲間を増やしていきたいと熱い思いを訴えました。彼女の思いが、会場の私たちの心に響きました。
 「部落差別は関係なか」ではないのです。私たち一人ひとりに関係があります。私たちに関係があるからこそ、毎年人権学習に取り組んでいらっしゃいます。部落差別を始めあらゆる差別を他人事として受け止めるのではなく自分のこととして受け止め、みんなが幸せに暮らせる世の中になる努力を続けましょう。
 第4の要因は、違いを排除するという心がありはしないでしょうか。
 皆さん、小さい頃、ちび、のっぽ、でぶなど言われたことありませんか?また言ったことはありませんか?これは、違いを排除することにつながりはしないでしょうか。横並びを重視することがありはしないでしょうか
 保育園や幼稚園時代に歌った「チューリップ」の歌詞憶えていらっしゃいますか?


           チューリップ

 さいたさいた チューリップの花が ならんだならんだ    
 赤白黄色 どの花みてもきれいだな

 この歌は、近藤宮子さんが、昭和5年に作詞したものです。「どの花みても きれいだな」という歌詞について近藤さんは、「なにごとにも良いところがあるものです。とくに、弱いものには目をくばりたい、という自分の思いをこめました」と語っています。
 違いを認め共に生きる「人権共存社会」の実現が求められています。
 次に、様々な人権課題解決のために自分にできることを考えてみましょう。人権課題解決で大事なことは、何が人権侵害であるかを見抜くことです。
 そこ(阿蘇広域事務組合の建物の側)に川が流れています。この川で、誰かがおぼれかかっているのを見たら、見ぬふりして通り過ぎますか?泳ぎに自身がある人はすぐに飛び込んで助けるでしょう。自信がなかったら、あたりを見渡し棒ぎれやなわなどつかまるものがないかを探し、あったらすぐに投げ込むでしょう。あるいは大声で助けを求めるでしょう。決して通り過ぎたり傍観したりはしないと思います。これが人権侵害だったらどうでしょう。人権市街の場合は知らん振りをしたり、見過ごしてしまうことがないとも限りません。そのようなことにならないためには、目の前の出来事が人権侵害かどうかを見極めねばなりません。見極める力が人権感覚であると思います。
 「人権感覚とは何か」について岐阜県で人権教育・啓発を推し進めていらっしゃる桑原律さんは、「人権感覚とは、具体的な場面に遭遇したとき、とっさに迷うことなく人間として当然あるべきあり方を行動として示すことのできる感性を指しています。それは、そうせずにはいられない直感的情動に基づく行動であり、正義感と言っても理屈の上ではなく、ごく自然に湧き上がってくる感性の行動化にほかなりません。」と著書「心しなかやか『人権感覚』」で述べています。また、「人権感覚って何ですか」という詩を作っています。資料に付けています「人権感覚って何ですか」を一緒に読んでみたいと思います。しばらく黙読して下さい。
 では一緒に読みましょう。どうぞ。



   「人権感覚」って何ですか   桑原 律

  「人権感覚」って何ですか 
  それは ケガをして
  苦しんでいる人があれば
  そのまますどおりしないで
  「だいじょうぶですか」と
  助け励ます心のこと

  「人権感覚」って何ですか
  それは 悲しみに
  うち沈んでいる人があれば
  見て見ぬふりをしないで
  「いっしょに考えましょう」と
  共に語らう心のこと

  「人権感覚」って何ですか
  それは 偏見と差別に
  思い悩んでいる人があれば
  わが事のように感じて
  「そんなことは許せない」と
  自ら進んで行動すること

  「人権感覚」って何ですか
  それは
  すどおりしない心
  見て見ぬふりをしない心
  他者の苦悩をわが苦悩として
  人権尊重のために行動する心のこと
            (ヒューマンシンフォニー 光は風の中により)  

 人権感覚とはがおわかりと思います。
 人権感覚を磨くと同時に、先ほどから言っていますように、正しく学び正しく理解し、相手の立場に立って判断し、人権を守る行動へつなげていきたいと思います。
 平成24年度全国中学生人権作文コンテストで、文部科学大臣奨励賞を受章した新潟県柏崎市立松浜中学校3年 蓬田怜奈さんの「聞いてください、私の思い」を読んでみます。一緒に読んで下さい。


              聞いてください、私の思い      新潟県柏崎市立松浜中学校3年 蓬田怜奈

 大熊町。緑の木々と青い海に囲まれた自然豊かな私のふる里です。そして、あの原発事故が起きた町。私のふる里は一瞬にして「死の町」とまで言われる誰もが嫌い、イヤがる町になりました。それまで私にとっての「人権」とは人間が生まれながらもっている権利と学校の授業で習った程度で、特に気にもせず考えもしないただ聞いたことのある言葉でしかありませんでした。
 しかし、避難してからは、同じ福島県内でありながら、耳に入ってくる話は「福島ナンバーの車がいたずらされた」「転校していった子が放射能のことでいじめられた」などの悲しい話ばかり。私はこの話を聞くたびに、「またかぁ…」と自分のふる里がだんだんと嫌がられている事がとても悲しく思っていました。
 そんな中、私も一つの体験をしました。部活の大会の日のことです。
 「うわ、なんでいるの。放射能がうつる。帰れよ。」
 すれ違いざまに他校の生徒に言われた言葉です。私は、この言葉を言われたとき泣きたくなり、大会すらやる気がなくなりました。新聞やニュースなどで得た少しの知識だけでこういう風に思っている人がいると、聞いてはいたものの、残念で仕方ありませんでした。何気なく言った言葉だったのかもしれませんがその言葉は、大熊町に住んでいた私にとって非常に悔しく悲しいものでした。家に帰り、その出来事を母に話すと、母は別の話もしてくれました。ある小児科では、受診してくる地域の子供を守るため大熊の人は診察しない。ある保育所では、やはり預かっている子供を守るため近くに大熊の人の車を駐車させないという内容でした。自分の「人権」を守るためなら相手の「人権」は傷つけてもかまわないのでしょうか。私はまちがった情報が、そういうまちがった守りを生む、原発事故について、しっかり学び正しい知識を得ることが差別をなくすのだと気付きました。
 差別というのは、私たちのまわりでは身体の障害や病気を理由にした差別、性別・年齢国籍の違いによる差別など小さなことから大きなことまで本当によく耳にします。差別をしている側からすれば、それを冗談だという人も多いのです。たとえ冗談だとしても心ない言葉の一つ一つが相手をどれだけ傷つけるのか気づいてほしいものです。小学校の時から私たちは道徳などでいじめや人権などについて学んでいてもなかなかそれがなくならないのは、そういうせいなのかもしれません。私に言ってきたあの子達もそうだったのかもしれませんが、実際に差別されている側はみんなの想像よりはるかに傷ついているということ、つらいということ、そして悲しいということを私は、この人権作文を通して、たくさんの人に知ってほしいのです。
 最近は過剰なマスコミやメディアにでてくるコメンテーターの個人的感情が、ストレートに入ってきて私達の意識に大きな影響をあたえているような気がします。しかし、自分の体験を通して感じたことは、一つの問題に対して人の言葉をすべてうのみにするのではなく真実とはなんなのかを見つけだすことが人権を守ることにつながるのだと思います。私たちが差別をなくすためにできること、それは、その人、その出来事についてしっかり知ること、知ろうと努力すること、正しい知識を深めるために学習することではないかと思います。我も人も自分らしく生きる。これが「人権」を尊重することだと思います。「人権」について考えること。それはとても難しいことのように思えますが、意外と簡単なことではないでしょうか。
 今、私が住んでいる柏崎は実際、放射能の心配がないせいなのか、それとも大熊町と同じように発電所が隣設されているせいなのかまったくそういったいやがらせはありません。私は改めて、そんな今があたりまえではないという現実を忘れてはいけないと思いました。同じ人間同士が平等に並んで歩くための権利。だれもが生まれながらにもっている大切なもの。自分も相手も同じひとりの人間として心に寄り添い、真実を見極め、理解し合う努力こそ、差別をなくし人権を守る大きな力になると思います。そして、私自身も差別や偏見、いじめがなくなるように強い心をもって、まずは自分から立ち向かっていきたいです。

 いかがですか?
 蓬田さんは、「差別されている側はみんなの想像よりはるかに傷ついているということ、つらいということ、そして悲しいということを私は、この人権作文を通して、たくさんの人に知ってほしい」、「一つの問題に対して人の言葉をすべてうのみにするのではなく真実とはなんなのかを見つけだすことが人権を守ることにつながる」、「私たちが差別をなくすためにできること、それは、その人、その出来事についてしっかり知ること、知ろうと努力すること、正しい知識を深めるために学習すること」、「同じ人間同士が平等に並んで歩くための権利。だれもが生まれながらにもっている大切なもの。自分も相手も同じひとりの人間として心に寄り添い、真実を見極め、理解し合う努力こそ、差別をなくし人権を守る大きな力になる」と訴えています。
 蓬田さんが訴えているように私たちは、次の世代の子どもたちに人権を尊重する心を伝えていきたいと思います。その人権を尊重する心とは、冒頭述べました自尊感情の醸成です。「自分の大切さとともに他の人の大切さを認めることができる力」、「他の人の考えや気持ちなどがわかるような想像力、共感的に受け止め理解する力」を養うことだと思います。今の子どもたちに不足しているのは「傷つけられた人やきつい思いをしている人の心の痛みを想像する力」です。傷つけられた人やきつい思いをしている人の心の痛みを想像する力があればいじめ問題などすぐに解決できると思います。先生方も体罰は行わないと思います。
 時間も押してきました。毎日の生活の中で、自分にできることを考え行動に移していくことを考えてみたいと思います。資料に付けています「一度きりのお子様ランチ」を読んでみます。


                一度きりのお子様ランチ

 ある日、若い夫婦が二人でレストランに入りました。
 店員はその夫婦を二人がけのテーブルに案内し、メニューを渡しました。
 「Aセット一つと、Bセット一つ。」
 店員が注文を聞きその場を離れようとしたその時、夫婦はしばし顔を見合わせ、「それとお子様ランチを一つ頂けますか?」と言いました。
 店員は驚きました。なぜなら、そのレストランの規則で、お子様ランチを提供できるのは小学生までと決まっているからです。
 店員は、「お客様、誠に申し訳ございませんが、お子様ランチは小学生のお子様までと決まっておりますので、ご注文はいただけないのですが...」と丁重に断りました。
 すると、その夫婦はとても悲しそうな顔をしたので、店員は事情を聞いてみました。
 「実は…」と女性が話し始めました。
 「今日は、天国へ旅立った私たちの娘の誕生日なんです。私の体が弱かったせいで、娘は最初の誕生日を迎えることも出来ませんでした。娘が私のおなかの中にいる時に『三人でこのレストランでお子様ランチを食べようね』って話していたんですが、それも果たせませんでした。子どもを亡くしてから、しばらくは何もする気力もなく、最近やっと落ち着いて、亡き娘にここの遊園地を見せて、三人で食事をしようと思ったものですから…」
店員は話を聞き終えた後、少し何かを考えていた様子でしたが「かしこまりました。」と答えました。
 そして、その夫婦を二人掛けのテーブルから、四人掛けの広いテーブルに案内しました。さらに、「お子様はこちらに」と、夫婦の間に子ども用のイスを用意しました。
 しばらくして、「お客様、大変お待たせいたしました。ご注文のお子様ランチをお持ちいたしました。では、ゆっくりと食事をお楽しみください。」
店員は笑顔でそう言ってその場を去りました。

 この夫婦から後日届いた感謝の手紙にはこう書かれていました。
 「お子様ランチを食べながら、涙が止まりませんでした。まるで娘が生きているように、家族の団らんを味わいました。こんな体験をさせて頂くとは、夢にも思っていませんでした。もう、涙を拭いて、生きていきます。また来年も再来年も、娘を連れてこの遊園地に来ます。そしてきっと、この子の妹か弟かを連れて行きます。」

 いかがですか?
 店員さんがとった態度をどう思いますか?一度は断りながらも、事情を聞いて2人がけのテーブルから4人がけのテーブルに案内し、しかも2人の間に子ども用のイスまで用意してお子様ランチをだし、「ゆっくりと食事をお楽しみ下さい」と声を掛けています。
 これは東京ディズニーランド内のレストランでのできごとです。ディズニーランドはアメリカのそれをまねて千葉県浦安市に造ったものですね。ディズニーランドの生みの親、ウォルト・ディズニーは、「人々に、夢と希望と生きる喜びを与える」ためにディズニーランドを造ったとものの本で読んだことがあります。店員さんは、夫婦に夢と希望と生きる喜びを与えました。それは、夫婦から届いた手紙「もう、涙を拭いて、生きていきます。また来年も再来年も、娘を連れてこの遊園地に来ます。そしてきっと、この子の妹か弟かを連れて行きます。」で分かりますね。
 最後に、論語の言葉を引用して終わりにします。論語は皆さんご存じの通り、孔子の弟子たちが孔子の言葉をまとめたものです。その中には、弟子と孔子とのやり取りがあります。その一つをそこに記しています。御覧下さい。


 衛霊公第十五412章

  〔原文〕
   子貢問曰、有一言而可以終身行之乎。
   子曰、其恕乎。己所不欲、勿施於人也。
  〔読み下し〕
   子貢問うて曰く、一言にして以て身を終うるまで之を行うべきもの有りや。    
   子曰わく、其れ恕か。己の欲せざる所は、人に施すこと勿れ。

 

 意味は、子貢が孔子に問うのです。
 「先生、私が先生の教えを守って生き続ければ、人としての道を過たずに生きることができる、そんな一語があれば教えて下さい。」
 孔子が答えました。
 「その字は恕。つまり相手の身になって思い・語り・行動することです。自分がして欲しくないことは人にしてはなりません。」
 みんなで声に出して読みたいと思います。しばらく黙読して下さい。
 では、一緒に読みましょう。どうぞ。
 子貢問うて日く、一言にして以て身を終うるまで之を行うべき者有りや。
 子日わく、其れ恕か。己の欲せざる所は、人に施すこと勿れ。
 「恕」の心を持ち続け、みんなが幸せを実感できる人権尊重社会実現のため行動されることを祈念して終わります。ご静聴ありがとうございました。